ターナー展2-地誌的風景画について-

ターナー展第一章はターナーの地誌的風景画の作品を並べていた。
室内に入って一番最初に目にはいる作品はターナーが17歳のときに描いたものらしい。
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才能についてターナーは「とにかくあくせく働くこと」と言っていたそうで。耳の痛い話だ。
けれどターナーはまさしくそれを体現した画家だったのだろうな、と思う。


よく知らない自分の付け焼き刃情報によると、ターナーの地誌的風景画というのは、実景図的風景画に理想的風景画がちょうど合わさってきたものになるそうだ。
実景図的、理想図的というのはそれぞれの国の特色のようなもので、風景画の捉え方の違いを表している。実景図的風景画とはオランダが源流で、見たままを正確に記録するもの。理想図的風景画とはイタリアでみられるもので、画家が自然の風景の中で描きたいものを取捨選択するもの。想像の風景も含まれるので想像的風景画なんて呼ばれ方もする。


イギリスは実景図的風景画が主流で、ターナーももちろんこの流れを受け継いでいるけれど、ターナーはクロード・ロランなどの理想的風景画を描く画家にも強い影響を受けている。
それにサブライム(崇高)、ピクチャレスク(絵画的)といったテーマもとりいれ、鑑賞者の感情に訴えかけるものを描こうとしていた(と思う)。


ちなみにクロード・ロランはこんな絵を描いている。きれい。
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地誌的風景画というジャンルは、その当時のイギリスでは旅行のパンフレットのような役目も果たしていただろうから、ターナーも観たままを描くのではなく、鑑賞者の需要を考えて描いていたのではと思う。
現代では風景画を描く際、邪魔な電柱を描かないだとか少し木をずらすとかはある程度当たり前のことだけど、その当たり前はこの時代に意識的に行われはじめたものなのではないかと。


ターナーは戦争中は国内の様々な地域を描いていたけれど、休戦とともに各国を巡りスケッチをしていたそう。体が頑丈だったのだろうなと思う。自分が画家だと言うことはあまり公言しなかったそうで、住民からは大工の親方のように見えていたんだとか。


冒頭の作品、『マームズベリー修道院』は1791年と92年、ブリストルの父の友人の邸宅に滞在したときのもの。父の友人のナラウェイはターナーのことを「風変わりでとてももの静かであり、もっぱら自分の絵画制作に没頭しているようだ」と回想している。
この時のターナーが、晩年まで息づいているんだなと感じられる。